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  • 執筆者の写真高森明勅

昭和天皇の「おことば」

1月7日は昭和天皇のご命日(崩御相当日)。 昭和64年1月7日。

冬の雨が静かに降る中、街角には弔旗が並んで掲げられていた。 昨日の出来事のように思い出す。

今日、宮中(皇霊殿)では「昭和天皇祭」(大祭)が厳かに斎行される(武蔵野陵でも祭典)。 昭和天皇をお偲(しの)びする縁(よすが)として、「おことば」をいくつか、謹んで顧みる。

「たとい連合国が天皇統治を認めてきても、人民が離反したのではしようがない。 人民の自由意思によって決めてもらって、少しも差しつかえない」 (昭和20年8月12日。ポツダム宣言の受諾を巡りアメリカ側の回答に「日本政府の形態は日本国民の自由意思による」旨の一文があり、指導層内部に動揺が生じたのに対し)

「自分はいかになろうとも、万民(ばんみん)の生命を助けたい」 (同月14日。いわゆる終戦の聖断〔2回目〕の際のご発言から)

「敗戦にいたった戦争のいろいろの責任が追及されているが、責任はすべて私にある」 (同年9月27日。連合国軍最高司令官マッカーサーとの初めての会見で)

「米国より見れば犯罪人ならんも、我国にとりては功労者なり」 (同年12月7日。木戸幸一内大臣が戦犯容疑者となり逮捕状が出ても、出頭に先立ち、夕食に招かれた) 「朕(ちん)と爾(なんじ)ら国民との紐帯(ちゅうたい)は、終始相互の信頼と敬愛とに依りて結ばれ、単なる神話と伝説とに依りて生ぜるものに非(あら)ず」 (昭和21年1月1日。新日本建設の詔書〔後に“天皇の人間宣言”とも〕から)

「わが舟師(しゅうし)が唐軍と白村江〔はくすきのえ〕で戦い惨敗した当時の、天智天皇がおとりになった国内整備、いわゆる文化国家建設の経綸(けいりん)をしのびたい」 (同年8月14日。昭和天皇は既に前年の12月、天智天皇を祀る近江神宮を勅祭社にお定めになっていた)

「国会は国権の最高機関であり、国の唯一の立法機関である。 したがって、わが国今後の発展の基礎は、いつに国会の正しい運営に存する」 (昭和22年6月23日。第1回国会の開会式で)

「立憲君主であることが私の終生の考えの根本です」 (昭和54年8月29日。那須御用邸にて)

「適当な仕事をすることは苦痛ではなく、楽しみであり、健康にもよい」 (昭和56年4月29日。80歳のお誕生日を迎えられ、識者や国民の一部から「ご公務を減らされては」との声があることに対し、「私の身体を心配してくれていることについては感謝します。幸い私は健康であります」と仰った上で)

「雑草という名前は、少し侮辱的な感じがして好まない」 (昭和59年8月31日。記者から「雑草という草はないとおっしゃられていますが、その意味は」との質問に)

「いつの間にか、こうなった。大したことではない」 (昭和60年7月12日。翌日に歴代天皇で最長寿になられた。それまでの最長寿は後水尾天皇の84歳3ヶ月)

併せて御製も。 あめつちの 神にぞいのる 朝なぎの 海のごとくに 波たたぬ世を (昭和6年。この年に満州事変が起こり、日本は国際連盟を脱退) 身はいかに なるともいくさ とどめけり ただたふれゆく 民をおもひて (昭和20年。終戦に際して) さしのぼる 朝日の光 へだてなく 世を照らさむぞ わがねがひなる (昭和35年) 日日のこの わがゆく道を 正さむと かくれたる人の 声を求むる (昭和41年) 思はざる 病(やまい)となりぬ 沖縄を たづねて果(はた)さむ つとめありしを (昭和62年。沖縄の本土復帰後、 初めて現地にお出ましの予定だった) 秋なかば 国のつとめを 東宮(とうぐう)に ゆづりてからだ やすめけるかな (同年。昭和天皇がご不例の為、 皇太子〔今上陛下〕が国事行為を臨時代行) やすらけき 世を祈りしも いまだならず くやしくもあるか きざしみゆれど (昭和63年。昭和天皇が最後に迎えられた終戦記念日に) 来年の1月7日には「昭和天皇30年式年祭」が執り行われる。今上陛下ご自身が武蔵野陵にお出ましになり、親祭なさるはずだ。

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