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執筆者の写真高森明勅

明治天皇の皇女の紀行文

わが知友で都立高校教諭の中澤伸弘兄。古書店で、標題も執筆者名もない、仮綴じの和本を手に入れた。文章は毛筆で書かれ、所々に朱で加筆訂正がなされている。 和紙に「高輪御殿」と刷られているのが、彼の目を惹いた。

高輪御殿は、暫く昭和天皇の弟宮の高松宮殿下がお住まいになった。今上陛下のご譲位後は、今の東宮(とうぐう)御所が仙洞(せんとう)御所として改築されるまで、ここが仮のお住まいになる。


元々は、明治天皇の第6皇女、常宮(つねのみや)昌子(まさこ)、第7皇女、周宮(かねのみや)房子(ふさこ)両内親王がお住まいになる為に建てられた。同御殿の関係者が書いた可能性が予想できる。本文は流麗豁達(かったつ)な「かな文字」を中心に書かれ、所々に幼い文字遣いが見られた。


まだ幼い少女が書いた文章と、彼は見当を付ける。

内容は紀行文。

第5回内国勧業博覧会を見る為に出発したとあるから、同博覧会が大阪で開催された明治36年の旅行と分かる。最初は御殿に仕える女官が書いたものかとも考えた。しかし、仕える皇族の記述がない。見ると、「我(わが)師下田歌子も同伴」と書かれている。


「我師」と言いながら「下田歌子」と呼び捨てだ。又、次のような記述も。


「御父母両陛下 御兄宮同妃殿下の御使(おつかい)を始め久邇宮(くにのみや)北白川宮満子女王その他宮内大臣はじめあまたの人々の出迎へらるるをうけ」

「(明治天皇が産湯を使った場所を)父帝のあれましし所」。


「御父母」に「陛下」との敬称。明治天皇の事を「父帝」と書いている。よって、紛れもなく明治天皇の皇女の手になる紀行文であることが判明する。下田歌子の伝記(『下田歌子先生』)の巻末年譜には、明治36年に常宮・周宮両殿下の関西ご見学に随行したとある。 これにより、お2方の皇女のどちらかがお書きになったと考えられる。しかも、途中に立ち寄った静岡の神部浅間大社の記述から、明治25年に執筆者の皇女が同社の境内に桜をお手植えになった事実を、確認できる。となると、周宮房子内親王は明治24年のお生まれで、同25年はまだ数えで2歳。とても桜のお手植えは無理だろう。 一方、常宮昌子内親王は明治21年のお生まれで、数え5歳。お手植えは可能だろう。

概略、以上のような検討を経て、中澤兄はこれを常宮昌子内親王が書かれた紀行文と断定された。古書店もそんな貴重なものとは知らずに売ったのだろう。まことに興味深い。


詳しくは『明治聖徳記念学会紀要』復刊第54号の同兄「常宮昌子内親王の紀行文」を参照。

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