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執筆者の写真高森明勅

昭和「斎田点定の儀」秘話

更新日:2020年12月27日


昭和「斎田点定の儀」秘話

5月13日、大嘗祭に向けた「斎田点定の儀」。 前例では、平成2年2月8日に宮中三殿の神殿前庭に「斎舎(さいしゃ)」を設け、卜者(うらないじゃ)役・灼手(やきて)役・合図(あいず)役の3人の掌典(しょうてん)がその斎舎に入り、幔(とばり)を垂れて「亀卜(きぼく)のことが古例により」行われた(鎌田純一氏『平成大礼要話』)。 その中身は? 江戸時代の実例は『鈴鹿家(すずかけ)文書(もんじょ)』によって、やや詳しく知る事が出来る。比較的近い昭和の大嘗祭については、実際に祭祀に奉仕された川出清彦氏の興味深い証言がある。 「陛下(昭和天皇)の御手もとには、まず、その候補地として悠紀地方にて三県、主基地方三県が進められる。そうすると陛下は、その内の二県に御加点(御爪〔おつめ〕の印〔しるし〕)される。この御加点二県の名を密封した封書を卜串(うらないぐし)という。この卜串が卜者に渡される…そして亀卜を行なった上、卜合、卜不合は卜串の包みの表面に書して…(天皇の)御手元に返上する。ゆえに卜者はその内容、つまりどの県が卜合であったか否かは、全然わからないのである。 したがって、これは卜者の決定ではない。その決定は神と陛下、否(いな)、陛下の御決定に神も加わらせ給(たま)うと見るべきものであろう」(『祭祀概説』)と。直接、亀卜に携わる卜者には結果が分からない―というのは面白い。ちなみに、昭和の大嘗祭では悠紀(ゆき)の地方が滋賀県、主基(すき)の地方は福岡県という結果だった。

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