旧宮家の廃絶
占領下に傍系の11宮家が皇籍離脱を余儀なくされた(昭和22年10月)。それらの方々は、元々「皇族ノ降下ニ関スル施行準則」(大正9年)に従えば、天皇との血縁が極めて遠い為、占領行政とは関わりなく、やがて皇族の身分を離れることになっていた。
又、皇族の中からも、3直宮家(じきみやけ=秩父宮・高松宮・三笠宮家)を除き、他の宮家の皇籍離脱を唱える声もあった(東久邇宮稔彦王)。
実際に皇籍離脱したのは、以下の宮家だ。伏見宮(ふしみのみや)・閑院(かんいん)宮・久邇(くに)宮・山階(やましな)宮・梨本(なしもと)宮・北白川(きたしらかわ)宮・賀陽(かや)宮・朝香(あさか)宮・東久邇宮・竹田宮・東伏見宮。
これらの宮家の皇籍離脱に際し、宮内府(後の宮内庁)の皇太后宮職庶務課長兼会計課長だった筧素彦(かけいもとひこ)が「まことに恐れ入ったことで」と申し上げたのに対し、貞明皇后(当時の皇太后=大正天皇の皇后)が以下のように仰ったことは、よく知られているだろう。「これでいいのです。明治維新この方、政策的に宮さまは少し良すぎました」(筧『今上天皇と母宮貞明皇后』)と。
これは戦前、傍系の皇族数が増えて、中には天皇のお気持ちに背いたり、不心得な振る舞いをしたりするケースも現れていた事実を念頭に置かれていたのだろう。
旧宮家のその後はどうか。サンフランシスコ講和条約が発効し、日本が国際法上の独立を回復してからも、旧宮家の復籍を求める声は拡がらなかった。歳月が流れる中、伏見・閑院・山階・梨本・北白川・東伏見の諸家が既に断絶した。僅か70年余りでこの状態。正嫡の「男系男子」に限定すれば、こうなっても不思議はない。旧宮家はもはや純然たる民間人なので、(他の旧宮家などから)「養子」を取ることも可能。
しかし、そうした手段で家の存続を図ることもなかったようだ。