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執筆者の写真高森明勅

国家と暴力


国家と暴力

国家と暴力


わが国の歴史の中で、国家の形成と発展において特に注目すべき時期が2つある。

1つは、古代における国内統一の過程。

もう1つは、近代統一国家の建設期。

この2つの時期において、他国と比べて大規模な武力・暴力の発動が見られなかった事実は、日本のめざましい特徴だろう。


まず、国内の統一については、以下のような指摘がある。


「古墳の地方への波及は、武力を伴うものはむしろ稀(まれ)であったろう…武力によらない統合を可能にしたのは、全国的規模で再編成された、鉄を含む重要物資にかかわる流通システムであったろう。このシステムの掌握に成功した主体こそ…外交権を独占したヤマト王権だった」(岩崎卓也氏)


「地方豪族は決して一方的な力関係に屈して大和国家の傘下に入ったわけではなく、地方豪族の側に国家的統一への要求があって、積極的に大王に服属していった」(長山泰孝氏)


「日本の場合…『地域国家』(分国国家)間のきびしい征服―統一戦争を経て、古代国家が成立したようにはみえない。この点、朝鮮の国家形成とは違う。…4世紀代=前方後円墳の全国的な展開をヤマト王権による軍事的制圧の結果とみることはできず、たぶんに各地の有力首長の方からの王権への参入、即ち有力首長の王権への求心力の方が大きい」(小林敏男氏)


「近年、ヤマト政権を中核とする日本列島の諸勢力の統合について、大きな問題提起がされている。それは考古学的な立場からの分析として、古墳時代に大きな戦争を確認できないという指摘である」(河内春人氏) 


朝鮮半島の場合、単に血生臭い征服戦争があったというだけでない。

唐・新羅の連合軍が百済・高句麗を順番に滅ぼした。

つまり、外国(唐)の軍隊を導入することで、新羅による統一が達成されたのだった。

シナ大陸では、約550年間にも及ぶ春秋・戦国時代の長い戦乱の末に、秦の始皇帝が統一を実現した(但し秦は統一後、僅か16年で滅亡)。

わが国とは事情が全く異なる。


次に、近代統一国家建設への起点となった明治維新について。

「この間の政治的犠牲者を勘定してみますと、トータルで約3万人です。

戊辰内乱と西南内乱という2つの戦争を合わせて、さらにそれ以外の犠牲者をある程度勘定してみても、3万人をちょっと超えるくらい…他の主要な革命に比べて極めて少ない。フランス革命の場合、内乱と対外戦争を合わせると約155万人に上った。ロシア革命や中国革命の場合は一千万人を超えるのではないだろうか。

…革命当時のフランスの人口(二千七百万人)は維新当時の日本の約80%であったが、その犠牲者は日本より二桁多かった」(三谷博氏『日本史からの問い』)


こうした事実の重みを直視する必要がある。他国と比較して、まことに恵まれた歴史だったと言わざるを得ない。

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