顕宗天皇・仁賢天皇の即位事情
歴史上、初めての皇統断絶の危機だった清寧天皇(22代)の後の、顕宗(けんぞう)天皇・仁賢(にんけん)天皇の即位。
この時の様子は古事記・播磨国風土記・日本書紀に記事がある。
雄略天皇が市辺押磐皇子(いちのべのおしわのみこ)らを殺害。
→皇子のお子様だったオケ・ヲケ王が逃亡。
→2王が播磨の豪族(忍海部造細目、おしぬみべのみやつこ・ほそめ)のもとに暫く潜伏。
→それを朝廷から派遣された人物(来目部小楯、くめべの・おだて)が発見。
→弟のヲケ王が即位(顕宗天皇)。
→兄のオケ王が即位(仁賢天皇)。
概略、以上のような展開だった。
2王発見の経緯が、“偶然の出来事”として、極めてドラマチックに語られている。
しかし、それをそのまま史実と考えている歴史学者はいないはずだ。
これまでの研究によれば、およそ以下の点が明らかになっていると言えよう(田中卓氏「顕宗天皇の即位をめぐる所伝の形成」『田中卓著作集10 古典籍と史料』・小林敏男氏「忍海氏・忍海部とヲケ・オケ王」『古代王権と県・県主制の研究』・廣瀬明正氏「顕宗・仁賢天皇と播磨国」『播磨古代史論考』・熊谷保孝氏「顕宗天皇の即位の背景」『摂播歴史研究』81号)。
①2王を保護した忍海部氏は、2王の叔母又は姉妹だった飯豊皇女(いいとよのひめみこ)や、母方の葛城(かずらき)氏と結び付いていた。
②保護されていた場所の縮見(志深、しじみ)は、2王の祖父に当たる履中(りちゅう)天皇ゆかりの土地だった。
③ヲケ王は別名「来目稚子(くめのわくご)」とされ、2王を発見したという来目部氏とは“予め”特別な関係があった。
以上を勘案すると、2王は朝廷内の周到な配慮のもとで、一旦は難を逃れ、しかるべきタイミングで都に戻って、順番に即位されたと考えるのが、最も自然だろう。
継体天皇が、天皇から5世も血縁が離れていても、なお“王”の称号を持ち、君主の一族としての身分から離れていなかったように、履中天皇の孫(3世)に当たる2王は当然、皇族(王族)のままだったと考えなければならない。
一旦、皇籍を離れた人物が、後から復籍して即位した訳ではない。そこを誤解してはならない。