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執筆者の写真高森明勅

旧宮家への敬意

更新日:2021年3月21日


旧宮家への敬意

旧宮家への敬意


「女性議員飛躍の会」の勉強会では個人名も飛び出していた。


「例えば竹田恒泰さんが天皇になると考えたら旧皇族の復帰は嫌だと言う人がいます。竹田さんは本当に立派な方で、正直で誠実な方です。問題提起をするために嫌われることもあります。ただ、竹田さんの評価は横に措(お)いて考えましょう。竹田さんが皇族に復帰しても、竹田さんは天皇になりません。皇籍に復帰する人が何かお役に立つとしたら、50年、60年、70年も先のことなのです。もちろん、皇族の一員として行事に参加することはあるでしょうが、この人たちがすぐに天皇になるなんてことはありえない。だから、30年、40年、50年先のこととして、今から準備をしておくということです」

(櫻井よしこ氏)


改めて言う迄もなく、竹田氏は父親の代から既に国民。だから「旧皇族」ではない。旧皇族でない以上、勿論「復帰」でもない。しかも、竹田氏は既婚者だから皇籍取得の対象にはなり得ないはずだし、元々ご本人がそのことを繰り返し否定しておられる(私に向かって直接そう明言されたこともある)。


しかし、そんなことよりも、目を向けるべきは、仮に旧宮家系の国民男性(の誰か)が“新しく”皇籍を取得したとしても、その本人は「天皇になりません」「天皇になるなんてことはありえない」と断言されている点だ。


これは、一体どんな制度設計を考えておられるのか。皇族の身分を取得し、しかも「男子」でありながら、皇位継承資格を認めない、という“准”皇族的な身分を特別に設けようされているのか。恐らくそうではあるまい。


そもそも、そのような、国民と区別された皇族の身分を、更に2つに分けるという制度自体、妥当性を欠くだろう。ならば、不測の事態に直面し、新しく皇籍を取得した人が突然「天皇になる」かも知れない。その可能性は誰も否定はできないはずだ。


「50年、60年、70年も先」と「30年、40年、50年先」では随分違う気もするが(30年先なのか、70年先なのか)、いずれにせよ、そんな将来の話だから、長年、世俗で暮らして来た(竹田恒泰氏の“ような”)旧宮家系男性を皇室に迎え入れても大丈夫、という言い方には何ら確かな根拠が無い。しかも、そうした物言いは、対象となる旧宮家系男性に対し、かなり失礼ではあるまいか。


要するに、本人の「評価は横に措いて(!)」、(30~70年先?に備えて)将来の世代の「男系男子」を生む為に、国民としての生活を全て捨てて、皇族の身分を取得してくれ、という話だから。


しかも、その人が必ず結婚をして、必ず「男子」を1人以上生むことを、当然の前提としている。しかし、皇族の場合、国民には無いご結婚へのハードルの高さがある。ましてや、昨日まで一般国民だった人が、「男系男子」を生む為(!)に、旧宮家から皇室に迎えられたという特殊なケースだと、そのハードルはもっと高くなるはずだ。勿論、結婚されたとしても、果たして子宝に恵まれるかどうか、その子が男子かどうかは、予断を許さない。


もし、わざわざ新たな法的整備をして、純然たる民間人がご結婚という人生の一大事を介することなく皇族になるという、前代未聞のこと(前近代にいくつかあった皇籍復帰の異例は、いわば貴族から皇族に戻る形で、庶民から皇族という例では無い)まで行いながら、遂に結婚されないとか、男子が生まれなかったような場合、(ご本人が何一つ悪いことをされた訳ではないにも拘らず)その人がどのような目で見られてしまうことになるか。


この論者は少しでも考えたことがあるのだろうか。


以前、東京新聞(5月24日付)にこんな意見が載った。


「本来は旧宮家の子孫を皇族にすることは望ましくないが、窮余の策として考慮しなければならないほど事態は逼迫(ひっぱく)している」(所功氏)


「事態は逼迫している」のは確かでも、皇室が直面しているのは、旧宮家系男性を迎え入れれば打開できるような、根の浅い困難さではない。という議論はともかく、旧宮家系男性の当事者の立場になって考えたら、「本来は…望ましくない(!)が、“窮余の策”として」宜しく頼む、と言われて、これまでの生活を一切投げ棄てて、又あらゆる不自由さも受け入れて、(将来の「男系男子」を生む為に)皇族の身分を取得しよう、という気持ちになれるだろうか。


旧宮家系男性に頼ろうとする議論の多くが、対象となる人々に、少しも敬意を抱いて“いない”ように見えるのは何故だろうか。

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