倉敷で暮らしていた母が、去る8月27日に亡くなった。86歳だった。
明るく元気で、何事につけても前向きだった母も、80歳を過ぎた頃から仕事(弟の会社の経理など)を離れ、近年は少し体力も弱まり、物忘れも目立つようになっていた。しかし、心は一層、清らかになった気がした。相変わらず私ども家族一同のことに気を配り、「有難い、感謝」という言葉を繰り返していた。
急に亡くなるとは、医者も予測できなかったようだ。介護施設のベッドで、手を持ち上げかけていたのが、コトリと下に落ちたと思ったら、既に息絶えていたとか。全く苦しむ素振りは見せなかった。寿命だったのだろう。余りに急な死だったので、地元にいる弟達も、その場に居合わせることができなかった。
葬儀は神式で簡素に行った。「母の生涯は明るく実り多き幸せな人生だった」と、私は喪主として挨拶を述べた。幼い頃に両親を亡くした母は、親戚の家に預けられ、辛い日々を送ったと聞いた。しかし、父と結婚して人生が一変した。
特攻隊の生き残りで、波瀾(はらん)に富んだ生活だった父も、母にはとても優しかったようだ。一杯、笑わせてくれた、と母が言っていた。父の人生も、母との結婚で大きく変わったのだろう。持病を抱え、64歳で亡くなった父は生前、「俺はこの病気(肝硬変)があるので長生きできない。しかし、俺が死んでも母さんを大切にしろ。俺が愛した女を粗末にしたら、俺が許さないから」と言っていた。
父が亡くなった後、母はより強くなったように見えた。我々子供らも、父との約束を守って、精一杯“大切”にしたつもりだ(でも恐らく我々の方が相変わらず母から大切にされていたのだろう)。地元を離れている私が一番、孝行出来なかったのは、心残りだ。
何より残念だったのは、新型コロナ恐怖症のせいで、このところ暫(しばら)く会えずじまいだったこと(施設の方針で親子でも面会が制限され、私のような県外の者は全く駄目)。
特に、前から「曾孫(ひいまご)の顔が見たい」と言っていた母に、今年の3月に我が長男の長女、母にとって紛れもなく曾孫がせっかく生まれたのに、(写真だけは届けたものの)遂に会わせられなかったのは、無念だった。
10月17日に50日祭。神職は敢えて呼ばず、私が奉仕した。あいにくの雨の中、引き続き、市内の山の上にある高森家の奥津城(おくつき、墓)で、納骨。墓の開け方が分からないので、墓を造った石材店の人に来て貰った。
夜、母も合祀(ごうし)した神棚(かみだな)がある客間で、弟達やその家族が集まって、すき焼きの鍋を囲み、アサヒスーパードライと「獺祭(だっさい)焼酎」(もちろん生〔き〕で)を飲みながら、故人を偲(しの)んだ。その時に、私がこんなことを喋った。
「今日は納骨を石材店の人に手伝って貰ったけど、もうお墓の開け方が分かったので、今度は自分達だけで出来るね」と。その瞬間、私はあることに気付いたので、大急ぎで付け加えた。「でも、順調に行けば(普通に年齢順なら)次にあのお墓に入るのは私だから、私が納骨のやり方を覚えていても意味はないな」と。とにかく、この日以降、母はわが高森家の守り神になった。