国民の明治神宮
今年の11月1日は明治神宮ご鎮座から丁度、百年を迎える。その為に、先頃(10月28日)、天皇・皇后両陛下、上皇・上皇后両陛下、秋篠宮・同妃両殿下のご参拝を仰いだことは、私のブログでも取り上げた。
明治神宮のご創建は、明治天皇が明治45年7月29日に崩御(ほうぎょ)された直後、東京市長(当時は東京府―東京市)の阪谷芳郎(さかたによしろう、元・大蔵大臣)らが天皇の御陵(ごりょう)を東京に造営することを宮内省に請願した(大正元年8月1日、崩御が発表された翌々日に当たる)のが、そもそもの発端だった。
しかし、御陵は京都の「伏見桃山」に造営されることが、決まっていた。これは明治天皇ご自身の遺詔(いしょう、天皇のご遺言〔ゆいごん〕)によると伝えられる(宮内省臨時帝室編修局『明治天皇紀』)。
そこで、世論は「(明治天皇の)御尊霊(ごそんれい)を奉祀(ほうし)すべき神社を帝都(ていと、東京)に建立(こんりゅう)」することを求めるようになった。
注目すべきは、阪谷らが策定した「明治神宮建設ニ関スル覚書(おぼえがき)」(大正元年8月14日)。
天皇が崩御されて2週間ほどしかたっていない。しかも、当初は御陵の造営を願っていたはずなのに、早くもこの時点で実に行き届いたプランを提案していた。後に創建された明治神宮の全体像を、見事なまでに先取りした未来図が、そこには描かれていた。
「内苑」と「外苑」を別に設け、内苑は国費、外苑は民間の浄財によるという提言も、そのまま実際に行われた(内苑と外苑を繋〔つな〕ぐ道路の費用は東京市が負担)。これは「国民の神宮」という側面を大切に考えた為。内苑は、明治天皇の「尊霊」を祀(まつ)る神聖かつ尊厳な空間。これに対し、外苑は国民が自分達の献金で造り、かつ気楽に集って、リフレッシュできる場。
但し、その中心となるのは明治天皇の「聖徳」を顕彰する施設とする(この施設は「聖徳記念絵画館」として実現)。そのような国民との接点を大切にした“空間設計”が最初から構想されていた。実際に完成した外苑には、「外苑競技場」(後の国立競技場)や明治神宮野球場(“神宮球場”の呼び名で親しまれる)も設けられ、多くの国民が集まる場となった(ちなみに、外苑競技場を主な競技場として行われていた明治神宮体育大会が戦後、国民体育大会に発展する)。
「国民の神宮」という性格は、内苑においても、造営作業に全国から延べ10万人余りの青年がボランティアで参加し(大正9年時点の国内人口は現在の半分以下の5600万人弱)、全国から樹種365種類、約10万本の樹木の寄付があった事実などに、よく表れている(これによって、それまで畑と荒れ地が主だった土地に、鬱蒼〔うっそう〕たる森が形成された)。
そもそも、同神宮のご創建自体、民間からの盛り上がりを受けて実現したのだった。神宮の名前は、「東京神宮」などの案もあった。しかし、最終的に「明治神宮」に決まった。ご祭神(さいじん)も、当初は明治天皇一柱(ひとはしら)を予定していた。だが、大正3年4月11日に昭憲皇太后(明治天皇の皇后)が亡くなられたので、皇太后も合祀(ごうし)されることになった。
なお、神宮創建に向けて政府に設けられた「神社奉祀調査会」のメンバーに、徳川宗家(そうけ)16代当主・家達(いえさと)の名前が見えているのは、明治維新という変革の“懐(ふところ)の深さ”を感じさせる(普通の革命なら、明治天皇と徳川家は“不倶戴天〔ふぐたいてん〕の敵”のはず)。
かくて、今から百年前の大正9年11月1日に、元は代々木御料地(よよぎごりょうち、御料地=皇室所有の土地)だった場所に、明治神宮が厳かに創建された。
同日の鎮座祭には、明治神宮造営局(内務省に設置)総裁だった伏見宮貞愛(ふしみのみや・さだなる)親王をはじめ、原敬首相、参列者総代・東郷平八郎元帥(げんすい)以下1400人余りが参列。
更に、同1~3日までの間に約150万人もの国民が参拝したという。当時のわが国の人口規模と交通事情を考えると、同神宮がいかに幅広い国民の熱意によって創建されたかを、察することができる。改めて明治神宮のご鎮座百年をお祝い申し上げる。