12月6日は今年最後のゴー宣道場。会場には多くの参加者が詰め掛けてくれた。テーマは、倉持麟太郎弁護士の近著『リベラルの敵はリベラルにあり』の刊行とも絡んで(同著は近来の快著!)、「リベラル」という思想について。
最初に倉持氏の基調講演。保守思想の源流とされるエドモンド・バークが、実はリベラルの考え方とも親和性がある点を指摘。次に、もっぱら新自由主義の提唱者と見られているハイエクが、本人の認識とは異なり、保守思想から遠くないことに言及。
ハイエクがバークを自由主義者(リベラリスト)と見ていたとも。更に、保守思想を語る時に欠かせないオークショットを取り上げ、リベラル側の井上達夫氏が最高のリベラリストと評価する一方、保守側の西部邁氏が最高の保守主義者と見ていたことを紹介した。
ヨーロッパでのリベラル思想は共同体や共通善、道徳も重視していたのに、アメリカに渡っると、個人主義化し、政府の介入も容認するように変質した、との指摘は興味深かった。と言うのも、日本のリベラルはもっぱらアメリカで変質した思想を丸ごと受け入れている気配が濃厚だからだ。
私自身も、リベラルと言えば、変質後のそれを主にイメージしていた。リベラル思想を正しい遠近法のもとで見る手掛かりを得た気がする。レジュメにある「個人化と中間層の没落によって、リベラル・デモクラシーは瓦解し、権威主義やポピュリズムに吸収された」との指摘は、現代の政治・思想状況を見る上で、見落とせない視点だろう。
続いて、宇野常寛氏がコメントした。そのメディア分析はさすが。話術も巧みで、聴く者を惹き付ける。質疑応答では、参加者の真剣さが伝わった。
小林よしのり氏が年来、一所懸命に取り組んで来られた道場は、客観的に言って、「考える庶民」を結集し、生み育てて行く、今の日本には稀(まれ)な切磋琢磨の貴重な場だろう。
なお、現代日本の自称「リベラル」については、左翼が社会主義幻想に引導を渡された後、以前と変わらぬルサンチマンを抱えながら、イマドキ風の身過ぎ世過ぎの為に掲げる、“偽りの看板”以外の何物でもないとの思いを、改めて強くした(旧社会主義勢力なので、国家による統制は元々大好き。それが新型コロナ禍でも露呈した)。
時代遅れになった護憲勢力が「立憲主義」の看板を、左翼が「リベラル」の看板を、それぞれ掲げて、何とか延命を図っている、という構図だろう。偽りの「看板書き換え」商法とでも呼ぶべきか。
終了後、道場の運営を支えて下さっている皆さんと忘年会。皆さんと話しているうちに、参加が微妙だった3月の奈良県、4月の新潟県での道場にも、ぜひ加わりたくなった。来年こそ、皇位の安定継承を巡る問題が山場を迎えるはずだ。そこで道場の真価も問われることになるだろう。差し当たり、無理で非礼な「皇女」プランが、そのまま年内又は年明け早々に、政府から国会に議論の叩き台として提示されるのか、どうか。そこに注目する必要がある。