7月26日、皇居・東御苑(ひがしぎょえん)で大嘗宮(だいじょうきゅう)地鎮祭が執り行われた。いよいよ11月に行われる大嘗祭(だいじょうさい)に向けて、その斎場となる大嘗宮の建設に取り掛かる。
では、そもそも何故、一定の経費を投じてまで、大嘗宮をわざわざ建てる必要があるのか?毎年の新嘗祭(にいなめさい)の場合、神嘉殿(しんかでん)と呼ばれる常設の建物で行われる。それで特に支障がないのであれば、大嘗祭も同じ神嘉殿で行えば良いのではないか?そのような疑問は、現代の日本人にとって必ずしも突飛ではないだろう。
しかし、神嘉殿で大嘗祭を行う訳にはいかない。何故か?答えは簡単。大嘗祭で祭られる皇祖神を“より”丁重に「おもてなし」する為だ。神道の考え方では、丁重に神をおもてなしする為には、「清らかさ」が何より大切だ。その場合、神を迎え、神にお供え物をする場所も、当然ながら出来るだけ清らかでなければならない。清らかである為には、その場所が使い回しされて“いない”、これまで未使用(!)である事が、最も望ましい。
しかし、毎年行う新嘗祭の場合、毎回、わざわざ未使用の斎場を設けるのは、さすがに現実的に無理がある。そこで、せめて天皇のご一代に一度限りの大嘗祭だけでも、最も望ましい形、つまり未使用の新しい斎場=大嘗宮を設け、そこで大嘗祭を、普段の新嘗祭よりも、更に一段と丁重かつ厳粛に行うべきである、と考えられて来たのだ。
それは至極当然の考え方だろう。そうであれば、大嘗宮に悠紀殿(ゆきでん)・主基殿(すきでん)という2つの御殿を建てる理由も、自ずと明らかだ。大嘗祭では2度、神にお供え物をする(これは毎年の新嘗祭でも、伊勢の神宮の神嘗祭〔かんなめさい〕でも同じ。それは、日本人の食生活が以前は1日に2食だった事の反映だろう)。その為、神を丁重におもてなしする為には、そのどちらの場合も、同じように(使い回しされていない)真新しい“清らかな”場所で行う必要があるからだ。
だから本当は、逆に「新嘗祭は何故、新しい斎場を設けないのか?」と問うべきなのかも知れない。