9月27日、11月の大嘗祭を控え、「斎田(さいでん)抜穂(ぬきほ)の儀」が執行された。
悠紀(ゆき)地方は栃木県高根沢町、主基(すき)地方は京都府南丹市の「斎田」において、大嘗祭で天照大神(及びその他の神々)に備えられる新米の収穫が、それぞれ行われた。
この両地方からの新穀の献上は、“全国民”の奉仕を「象徴」する。だから本来、国内のあらゆる地域が、両地方に選ばれる可能性を秘めていなければならない。ところが古代統一国家の衰えと共に、そうではない時期が暫く続いた。
先ず、平安時代の60代・醍醐天皇から悠紀は近江国に固定してしまう。主基は丹波・備中・播磨の3ヵ国から選ばれるようになった。やがて、その中から播磨国が脱落する。
64代・円融天皇から主基は丹波・備中からしか選ばれなくなる。そうした状態のまま、103代・後土御門天皇の後、戦国時代に突入して、天皇の代数で9代、期間の長さで221年間にわたり、大嘗祭が中断した。
江戸時代の113代・東山天皇の時に再興されて以降、悠紀は近江、主基は丹波に固定した(但し114代・中御門天皇は大嘗祭を行っていない)。そうした形が121代・孝明天皇まで続いた。明らかに本来の“あるべき姿”からは外れていた。
そうした状態を打開したのが明治維新だった。明治天皇以降、再び全国のあらゆる地域が悠紀・主基両地方の対象とされ得るようになった。古代統一国家の衰退と共に縮小していた在り方が、近代統一国家の形成によって、再び本来の姿を取り戻したと見る事ができる。
大嘗祭は単なる文化遺産などではない。むしろ、国家の公的統治、国民統合の状態と、“パラレル”な関係にある。この度の大嘗祭も、そうした歴史的パースペクティブの中に位置付ける事ができる。栃木県・京都府の斎田決定も、前近代の矮小化した大嘗祭のままなら、とてもあり得なかった。
画像:小川昌宏撮影