明治時代の代表的な思想家、福沢諭吉。その「女性」観について以下のような指摘がある。
「注意すべきは、福沢〔諭吉〕が常に、女性も男性も『万物の霊〔世界のあらゆるものの中で最も優れた存在〕』として『軽重〔けいちょう〕の別』(どちらかが重要であるという区別)のない等しい人間として扱っていることです。
彼は、『一人前の男は男、一人前の女は女にて、自由自在なる者』(『学問のすゝめ』)と述べています。そして男女の異なるところは『生殖の機関のみ』であって、それについても軽重の差はないといい、心の働きは同様なので、男子のすることで女子にできないことはないのだと主張するのです(『日本婦人論後編』)。
…福沢の思想が、女性を差別していた西洋の自由主義とは異なることがわかるでしょう」
「福沢の議論を見た時、最も重要な点は、やはり女性を男性同様『万物の霊』として対等に扱っている点でしょう。『万物の霊』であるかどうかは『智』と『徳』の発達により 測られますから、男女の性における違いは評価に関わってこないのです」
「西洋では、男女の肉体的形態の違いから女性に対する差別が肯定されてきました。 また、性的な欲望は否定されて、常に人間は動物とは異なる理性により行動することが主張され、女性は理性を持たない存在として抑圧されてきたのです」(中村敏子氏)
「万物の霊」という概念自体は、シナの儒教に由来する(『書経(しょきょう)』に「人は万物の霊」と出て来る)。しかし、福沢の思想は儒教的な“男尊女卑”の発想とは全く隔たっている。一方、ヨーロッパの自由主義思想を学びながら、その「女性」観はまるで違っていた。そこに、福沢の思想的なオリジナリティーを認めることが出来る。と同時に、わが国における(シナやヨーロッパの女性への差別的な捉え方とは異なる)伝統的な「女性」観が、 (恐らく本人が無自覚のうちに)反映しているとも言えるのではないか。