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執筆者の写真高森明勅

「建国記念の日」3つの視点(3)


「建国記念の日」3つの視点(3)

紀元節の元になった、『日本書紀』に描かれた神武天皇像を、そのまま史実と見ることは出来ない(勿論〔もちろん〕、『古事記』も同様)。


しかし、その物語の“核”には、国内統一の端緒において、政治の中枢が九州(恐らく福岡方面だろう)から大和(奈良)の地に遷(うつ)った「事実」があった、と見て良かろう。


そこから伝説的・神話的に物語として発展した部分は、むしろ古代統一国家建設期の日本人の、国家や天皇への“理想像”が語られていると受け取るべきだろう。その観点から注目されるのが、神武天皇が橿原の地に“最初の都”を定めるに当たって、国家建設の方向性を表明した「令(のりごと)」の一節だ。


「天上の皇祖神がこの国をお授け下さったご恩恵に報い、地上で皇祖の系統を受け継いだ代々の先祖が正義を育まれた御心を弘めよう。それによって、国内をまとめて都を開き、天下を全て一つの家族のようにすることは、とても良いことではないか」(『日本書紀』神武天皇即位前紀・己未〔つちのとひつじ〕年3月7日条、高森訳)と。


ご自身で苦心惨憺(さんたん)して国の礎(いしずえ)を築かれたことが、これ以前に延々と語られているにも拘らず、それを天皇自らの手柄とせず、天上の神から与えられた恩恵としている。その点に、古代日本人の“リーダー”像を窺(うかが)うことが出来る。


更に、「正義」を重んじ、その正義を自分に帰属させるのではなく、代々の先祖が守り育てたもの、と位置付けていることも、大切だ。こうしたメッセージが、初代天皇の「令」として語られていた事実は、それ自体が強力な理念・規範として機能し、後の天皇に対して、神への謙虚な姿勢と正義に基づく公正な行動を求め、権力を恣(ほしいまま)に行使する振る舞いを、決定的に制約したはずだ。


「建国記念の日」の遠い源流には、古代統一国家建設期における日本人の、“天皇と国家”のあるべき姿へのイメージ(心的表象)が秘められていた。(了)


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