文化人類学者として刺激的かつ多彩な仕事を残された故・山口昌男氏。
昭和34年の上皇・上皇后両陛下のご成婚を巡る、国民的祝福のほとんど空前の盛り上がりに際して、「象徴と天皇制」(『日本文学』同年5月号)という文章を書いておられた。
「福田恆存は『象徴』なんぞと云うのは無意味だというが、私は却ってなかなかそれどころかまぐれ当りに当った言葉であるとさえ思っている。
…たしかに、『象徴』というのは政治的な次元では意味のない言葉であり、文学的次元でも捉えどころのない言葉であり、世俗的にはたかが帽子の徽章に譬えられているものにすぎないかもしれない。
しかし事宗教的な次元では決して実体のない言葉ではない。
エリアーデという比較宗教史学者が規定している『象徴』という概念はなかなか示唆的なものを含んでいる。
彼の言う所を傾聴してみよう。
『“象徴”は直接の経験の平面では明らかでない実在の様相、世界の構造を示す力を持っている』即ち『宗教的象徴の本質的性格は、多くの要素を含んだもの、直接の経験では明らかでない連続した多くの矛盾した要素を同時に表現する能力である』。
とすれば『天皇制』はまさに日本人にとっては宗教的象徴そのものである。
又『宗教的象徴によって、人間は世界の統一を発見し、同時に自分自身の運命が統一ある世界の一部であることが明らかになる』。
そして『このことによって人間は孤独を感じないし、象徴によって親しいものになった自分の世界に目を開く』思いをする(彼の『ImageとSymbol』を参照)。
こういう規定を与えられると『象徴』という言葉は『天皇制』を表明する言葉としては俄然生気を帯びてくる。
日本人のメンタリティーに潜む多くの脈絡のない矛盾した状況を統一し孤独から解放して全体との繋がりを得しめる機能、これが天皇制にふさわしいそして日本人によって求められている姿ではないだろうか。
…この象徴としての機能を正視する事なしに天皇制を単に政治的、マス・コミ的局面で捉えようとする試みはいずれ天皇制と国民の奥深い連鎖を見失う結果を導かずにはいないであろう。
…日本人とは何者かという疑問の一度は通らなければならない途が此処にある」(同氏『天皇制の文化人類学』平成元年刊、立風書房に所収。岩波現代文庫版『天皇制の文化人類学』平成12年刊には収められていない)
今から60年以上も昔の文章ながら、現代でも新鮮な喚起力を失っていないだろう。