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執筆者の写真高森明勅

わが郷里・倉敷で亡母の1年祭


わが郷里・倉敷で亡母の1年祭

昨年の8月27日に母が亡くなった。86歳だった。

新型コロナ禍のせいで、満足に顔を見せることも出来ないままだった。 最も心残りだったのが、楽しみにしていた曾孫が折角、同じ年の3月に生まれていながら、最後まで直接会うのがかなわなかったことだ。

幸い、特に苦しむこともなく、息を引き取った。 それが、せめてもの慰めだ。


1年祭は勿論、亡くなった当日に行えれば一番良い。 しかし、9月末に刊行予定の拙著の再校が25日に出て、それを30日には戻さなくてはならない。 編集サイドでは三校も見るものの、著者が目を通せるのは原則として再校まで。初校と同様に校閲上の指摘への対処もあり、この期間は書斎に籠って作業に没頭したい。

そこで前倒しして、21日に行うことにした。この種の祭典は、先延ばしは故人への非礼に当たるが、前倒しは常識の範囲内で一応、許される。母の霊も恐らく許してくれるだろう。


祭典は、私の生家(倉敷市内)の神棚がある客間で行った。神社の神職には頼まず、私自身が奉仕する(高森家の宗教は、祖母の代まで浄土宗だったが、祖母が亡くなった後、父の代で神道に改宗した)。


長男一家も参列する予定だったのに、長女(私にとっては孫)が夏風邪で急に熱を出してそれが出来なくなくなったのは、やむを得ない。その代わりではないが、私の末弟の次女が今年7月に結婚しており、その旦那さんも参列してくれた。

可愛い姪っ子が、旦那を横に座らせて、ポタポタ涙を落とし、言葉に詰まりながら、霊前で心を込めて結婚の報告をしていたのが、この度の祭典中、取り分け印象に残る場面だった。


祭典が終わると、市内の山の上にある高森家の墓参り。「高森家之奥津城(おくつき)」と刻んである。順調に行けば、次にこの奥津城に入るのは私のはずだ。その後、個室のある料理屋で会食。ビールから地酒へと、昼間からアルコール類を飲んだのは私だけだった。 来年は、64歳(今の私の年齢だ)で亡くなった父の30年祭に当たる。 念の為に、その事実を一同に伝えておいた。


今回、倉敷に向かう新幹線の中で読んだのは倉田百三の『法然と親鸞の信仰』(講談社学術文庫)。思った以上の名著だった。

神道・仏教・キリスト教など宗教に関心がある人は勿論、人生について深く省察しようと考えている若い世代には、一読を勧める(平易明快で力強い文体ながら、読書の習慣が無い場合、少し難しく感じるかも知れない)。その一節。


「普通の倫理では『悪を抑えて、善を行え』というが、それは実に簡単な、表面的な考え方で、人間の内面の機根や、性格や、業(ごう)というものの不随意性や、善、悪というものそれ自体の 不可知性を知らないからで、誠に浅い、苦労のない考え方である。そんな事で、悪を抑えて、善が行えるものなら、世の中に悪をつくるものは1人もいない」


東京に向かう新幹線で読んだのは、水谷千秋氏の新刊『女たちの壬申の乱』(文春新書)。 水谷氏の著書は(学説上の賛否はともかく)これまでに何冊も読んでいる。他に、鶴見俊輔氏『埴谷雄高』(講談社文芸文庫)を鞄に入れていた。しかし、読み終える時間がなかった。 倉田・鶴見の著書は、どちらも最近、神保町の古本屋「手文庫」で手に入れたもの。


倉敷に滞在中、時間を作って美観地区の古本屋「ムシ(虫×3)文庫」に立ち寄った。 取り敢えず購入したのは、以下の6冊。高尾利数氏『イエスとは誰か』(NHKブックス)、 原武史氏『一日一考 日本の政治』(講談社現代新書)、佐藤正英氏『親鸞入門』(ちくま新書)、赤坂憲雄氏編『追悼記録 網野善彦』(新書y)、小林秀雄氏『考えるヒント ランボオ・中原中也』(文春文庫)、とり・みき氏『山の音』(ちくま文庫)。


以前、ジョン・ドミニク・クロッサンの『イエスとは誰かー史的イエスに関する疑問に答える』(新教出版社)を読んだ。同じタイトル(但しサブタイトルは無し)の高尾氏の著書は、それが翻訳されるより前に刊行されていた。


佐藤正英氏は大著『歎異抄論釈』の著者。

『山の音』の解説は山上龍彦氏が執筆している。


なお、10月に岡山での開催が予定されているゴー宣道場には、私の弟ら身内4名が参加を希望している。

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