以前にも紹介したように、天皇・皇室と人権を巡る憲法学説は、およそ3説に整理できる。
《3つの憲法学説》
A説は、天皇及び皇族が共に人権の享有主体である「国民」に含まれる(但し、憲法が定める世襲制・象徴制による特別扱いがなされる)とする(宮沢俊義・佐藤功・芦部信喜ら)。政府見解もこの立場に近い。
B説は、天皇は国民に入らない一方、皇族は国民に含まれるが、天皇との距離に応じた特別扱いが認められるとする(伊藤正己ら)。
C説は、天皇及び皇族も共に国民から区別された特別の存在で人権の享有主体ではないとする(佐藤幸治・長谷部恭男ら)。
《通説の変遷》
元々、A説が通説の地位にあった。
しかし、近年はC説にその地位を譲ったと見ることができる(奥平康弘・横田耕一・巻美矢紀・木村草太ら)。
C説は以下のような見解だ。
「日本国憲法が作りだした政治体制は、平等な個人の創出を貫徹せず、世襲の天皇制(憲法2条)という身分制の『飛び地』を残した。
残したことの是非はともかく、現に憲法がそのような決断を下した以上、『飛び地』の中の天皇に人類普遍の人権は認められず、その身分に即した特権と義務のみがあるのも、当然のことである。
したがって、天皇は(そして皇族も)憲法第3章にいう権利の享有主体性は認められない」
(長谷部恭男『憲法〈第5版〉』)
このような見解に基づく運用が定着した場合、皇室の存在意義を担い、支えようとする当事者の方々の責任感・使命感・モチベーション、「エスプリ・ドゥ・コール」が果たして維持されるのか、という問題点を、前にも指摘した。
《必要最小限という留保》
しかし、同じC説でも、少し異なる説明の仕方がある。
「憲法は、主権者国民の総意に基づくとはいえ、近代人権思想の中核をなす平等理念とは異質の、世襲の『天皇』を存続させているのであって、現行法上天皇および皇族に認められている特権あるいは課されている著しい制約――それが世襲の象徴天皇制を維持するうえで最小限必要なものと前提して――が是認されるとすれば、その根拠はまさにこの点に求めざるをえず…憲法は、基本的人権の観念に立脚しつつも、天皇制という例外を導入した」(佐藤幸治『日本国憲法論』)
ここでは、天皇・皇族に対する「特権あるいは課されている著しい制約」について、あくまでも「世襲の象徴天皇制を維持するうえで“最小限”必要なもの」との留保が付けられている。
「人類普遍の人権は“認められず”…特権と義務“のみ”があるのも、“当然”のこと」という決め付け方とは、いささかトーンが違う。
《人権は憲法以前の権利》
上記のごとき“留保”が差し挟まれる根拠は何か。
それは、人権が本来、憲法“以前”の権利(全ての人間が、人間の尊厳に基づいて持っている、固有の権利)と考えられていることによるだろう。
「世襲の象徴天皇制」を維持する為に必要な“限度”を越えてまで、人権が制約される根拠は無いということだ。こちらの見解の方がより説得的だろう。私なりのまとめ方で言えば、国民に憲法第3章が全面的に適用される一方、皇室の方々には第1章が“優先的に”適用されるという厳格な区別があるものの、だからと言って第3章の適用対象から全く除外されているのではない(!)、という整理になる。
《憲法と女性・女系天皇》
学説状況も踏まえないまま、天皇・皇室は人権の枠外にあるので、女性・女系天皇を排除する差別があっても「当然」―と息巻く場面を見かける。
しかし、それは「世襲の象徴天皇制を維持するうえで最小限(!)必要なこと」なのか、どうか。
側室制度が無くなり、非嫡出・非嫡系による皇位の継承が排除された条件下で女性・女系天皇を排除すれば、逆に「世襲」を困難にする。
更に、男女によって構成される「国民統合の象徴」が、制度上もっぱら男性のみに限定されている現状は、その象徴性の面でなお是正が求められよう。
《皇室の人権が正当に尊重されなければ…》
皇室の方々の人権は、憲法が定める世襲制・象徴制と絶対的に対立・矛盾しない限り極力、尊重されねばならない。
そうでなければどうなるか。
ご結婚によって皇族の身分を取得しようとする国民は現れにくくなる。
畏れ多いが、皇族の方々が皇籍からの離脱を願う結果にも、繋がりかねない。
そんな状態では、普通に考えて、皇室を巡る制度の維持は至難だと言えよう。