憲法学者の木村草太氏が天皇・皇室を巡る制度について、「制度の存在目的が分からなければ、それを維持する努力をすべきかどうか分かるはずがない」という、的を射た問題提起をされている(週刊朝日、1月7日・14日合併号)。
天皇の権威を封じ込める為?
同氏は、その「目的」について以下のように整理されている。
「一つの説明は、『国民主権を邪魔しないように天皇の歴史的権威を封じ込めるためだ』という消極的な説明だ」と。
「もしも憲法に天皇制の定めがなければ、天皇家は単なる民間団体の一つにすぎなくなる。
天皇家の家長つまり『自称天皇』を決めて、『自称天皇を党首とする政党』を作ったり、選挙の候補者に『自称天皇の公認』を出したりしても、憲法や法律では制限できない。
しかし、自称とはいえ、天皇は強い権威を発揮する可能性がある。
これでは、国民主権に基づく統治がかく乱される危険があろう。
そこで、憲法に天皇制を定め、天皇の行為に内閣の助言と承認を必要とすることで、コントロールする。そうすれば、天皇の権威は内閣と、それを信任する国会によって封じ込められる」
「この説明からすれば、『天皇家の品位』を気にする必要はない。
跡継ぎがいなくなり、自然消滅しても特に問題はない。国事行為の代行だけを担保すればよい」
国民主権を補完する為?
「第二の説明は、『国民主権で足りない部分があるから、天皇の権威で正統性を補完している』というもの。これは、天皇制を積極的に活用しようとする説明だ」
「国民の多数派やその代表が何かを決定したとしても、『それは正しくない』と感じる人は当然でてくる。ただ、天皇が国事行為を行うことで、『天皇陛下が行ったことなのだから』という形で
納得する人もいるだろう。
天皇制にこうした積極的機能が見出だす見解は、天皇に対して、国民の尊敬を集め、権威を維持するふるまいを天皇に求める」
「この説明は、『国民主権は正統性調達原理として頼りない』という判断を前提にしている。
したがって、天皇の不在は統治の危機であり、天皇制存続に全力を尽くさねばならない。
また、存続方法は天皇の権威を維持するにふさわしい方法でなければならない」
二者択一なのか?
木村氏らしい明快な説明だ。
しかし、「国民はいずれの説明をとるだろうか」と二者択一的に問題を設定されているのは、いただけない。現在の憲法・皇室典範などからは、制度の在り方として両者を共に採用しているように見える。
例えば、天皇の国事行為に「内閣の助言と承認」が不可欠(第3条)で、「国政に関する権能を有しない」(第4条第1項)としているのは、「第一」の説明に相応しいようだ。
だが一方、その国事行為の具体的内容(第4条第2項・6条・7条)に着目すると、「第二」の説明こそ当てはまるだろう。
又、戦後の長い歳月における、力点の推移も視野に収める必要がある。当初は、占領当局の意向もあり、第一の説明に力点が置かれていたのが、昭和から平成への時代の流れの中で、次第に第二の説明に力点が移って来たのではあるまいか。
「国民」無くして“国民主権”無し
更に、木村氏の議論に抜け落ちている視点がある。
それは、“国民主権”の前提となる「国民」という共同性を、自明の与件としていることだ。
人類一般の中で、特定の人々の集団が「国民」として他の人々から区別して位置付けられ、しかもその共同性が揺るがずに維持されることは、必ずしも自明な事柄ではないはずだ。
それをもし自明のように錯覚しているとしたら、それは本人がたまたま、国民的共同性が大きな動揺を免れている(恵まれた)条件下で日々、暮らしている事実に無反省でいる為だろう。
しからば、わが国において「国民」という共同性を成り立たせ、維持している諸条件の中で、取り分け重大な意味を持つ存在は何か。
憲法は、(「国民」を“同一の国家を担う統合された人々の集団”と定義した場合)その回答を第1条に書き込んでいる。少なくとも、憲法を前提とする限り、天皇・皇室を巡る制度の最大の目的は、国民主権の更に“前提”をなす「国民」という共同性を成立・維持させることだろう。
ならば、その存続はあらゆる政治的・社会的課題の中でも、最優先されるべきではないか。
〔追記〕
なお、木村氏の議論について2点、更に補足・訂正をしておく。
先ず、第一の説明に関連して、天皇が消滅しても「国事行為の代行だけを担保すればよい」と言うが、「代行」させる“主体”は天皇なので(憲法第4条第2項)、憲法を改正しない限り、「代行だけを担保」するのは不可能だ。
次に、第二の説明について「国民の尊敬を集め、権威を維持するふるまいを天皇に求める」とあるが、勿論「天皇(及び上皇・皇族)に」だけ求めるのは妥当ではない。
“国民にも”天皇・皇室の「積極的機能」が十分に発揮される為の「ふるまい」が求められる。