いわゆる旧宮家では最も格が高い「宗家」に当たる伏見家。
その現在の当主の伏見博明氏(昭和7年生まれ)への聞き取りをまとめた『旧皇族の宗家・伏見宮家に生まれて―伏見博明オーラルヒストリー』が先頃、刊行された(令和4年1月、中央公論新社)。戦前から戦後にわたる旧宮家の等身大の姿を浮き彫りにした貴重な歴史の証言だ。
皇籍離脱について、「僕はむしろ、宮さま(皇族)という縛りがなくなる、自由になるという気持ちのほうが強かった」と語る同氏は、戦後どのように暮らして来られたのか。
世界一クラスの石油会社に就職
「(就職については)うち(伏見宮家)に勤めていた…事務員の親戚が当時のスタンダード・バキューム・オイル・カンパニーの日本支社ナンバー2かナンバー3のポジションにいて、その人から『うちに来ないか』と声をかけられました」
「スタンダード・バキュームは今のエクソンモービルの親会社で…ロックフェラーの会社ですから、石油会社としては世界一クラスです」
「24歳で入って退職するまでの30年以上、途中、広報部長をやったこともありましたが、だいたいは営業をやっていました」
「国内の営業で、大きいのは新日鐵(現・日本製鉄)とかトヨタとか自衛隊といった大口の企業や組織…そういったところを相手にした法人営業です」
「コネを使って営業」
「僕は営業と言っても、言い方が適切かどうかわかりませんが、コネを使って営業していたんですね。社長、副社長のクラスに知っている人がいたり、その知っている人に他の人を紹介してもらったり、という人脈を使っての仕事でした。
普通の営業だと、役員クラスに会えないでしょう。だから、私が連れて行って、しかるべき部長や課長を紹介してもらう、そういう仕事でした」
「そんなつもりはなかったのですが、たしかに普通の営業ではない、特別な感じでやらせてもらっていました。当時はまだ、元海軍の人が役員をやっているような会社がありました。たとえば東洋鋼鈑の工場長がうちのおじいちゃん(元帥〔げんすい〕で海軍の軍令部総長を務められた伏見宮博恭〔ひろやす〕王)の部下だったとかね。油を売り込みに行ったら、『伏見宮さまですか』なんて言われて応接間に通されちゃったりするわけです(笑)。そしてすぐにオーダーをもらいましたから、有難かったですね」
営業担当なのに接待される
「日生劇場ができる時(昭和38年)のことです。…日生劇場は私が営業に行く前に、出光石油さんにほぼ決まっていたんです。でも、私は当時の日本生命の弘世現(ひろせ・げん)社長をよく知っていました。というのは、弘世さんは学習院の出身で昭和天皇とも親しくされていて、さらにお嬢さんの正子さんが従兄の久邇邦昭(くに・くにあき)さんの奥さんなのです。そこで、弘世社長に『なんとかうちの油を使ってもらえませんか』と頼んだら、『わかりました』とおっしゃって、翌日にはオーダーを頂きました。まさに社長の一声で決まる。現場じゃずいぶんぶつぶつ言われたようですが」
「こんなふうに、30年前ぐらい前までは、お得意さんのところへ行くと、役員の方々だと『えっ、宮さまですか』みたいな感じで、よくしてくださいました」
「もちろん僕は接待するつもりで行くのです。でも、たしかになんだか急に相手側がご馳走してくださることも多かったですね。それはまずいからって一所懸命に言うんですけど、どうしてもって接待されてしまう」
“最強”の営業担当
「こんなこともありました。
まだ営業に移って間もない(若い)頃に、部長と一緒にある会社に行きました。当時は東洋鋼鈑や十條製紙(現・日本製紙)といった会社には工場の中に迎賓館みたいな施設がありました。その時も、『伏見さんはこちらにお泊まりください』って言われて迎賓館に案内されて、部長はビジネスホテルに泊まったのです。それはさすがにまずなと思いましたけど」
同氏の営業担当としての“最強ぶり”が目に浮かぶようだ。
それにしても、政府が提案している内親王・女王のご結婚相手とお子様が“国民のまま”というプランでは、伏見氏より遥かに強力な営業担当が登場することにもなりかねない。それで皇室の「聖域」性は保たれるのか。