これまで保守系の人々は、皇室の「新しい風」にほとんど“脊髄反射的”に(見当違いの!)強い反対の態度を示して来た。
例えば以下のような具合だ。
①上皇・上皇后両陛下のご結婚に反対
多くの国民が熱烈に歓迎する中(“ミッチーブーム”が巻き起こった!)、上皇后陛下が“「平民」出身だから”というだけの理由で、少数ながら頑固な反対があった(今となっては信じ難いだろうが)。それが上皇陛下のお気持ちに背き、いかに愚かな態度だったか、今では誰の目にも明らかだ。
②上皇・上皇后両陛下がお子様をお手元で育てられることへの反対
多くの国民が当然のこととして受け止める中(“ナルちゃん憲法”が話題に!)、“先例・前例と異なる”というだけの理由で反対する人々が一部にいた(今となっては信じ難いだろうが)。
しかし、実際は大正天皇も昭和天皇も、早くからお子様をご自身のお手元で育てられることを、強く願っておられた。その上、お子様をお手元でお育てになってこそ、皇位の「直系」継承の意義はより発揮される。
当時の反対がいかに理不尽なものだったかは、もはや明白だ。
もし、天皇・皇后両陛下が敬宮(としのみや、愛子内親王)殿下をお手元で育てられることに反対する者がいたら、奇異の目で見られたはずだ(先日行われた、敬宮殿下がご成年を迎えられた際の記者会見こそ、まさに上皇・上皇后両陛下のご決断の“正しさ”を証明して余りあるだろう)。
③即位の礼・大嘗祭が東京で行われることへの反対
旧登極令(とうきょくれい)には、即位の礼・大嘗祭は「京都」で行うという規定があり、大正・昭和の御代替(みよが)わりではそれに従って行われたことから、旧登極令がすでに法的効力を失っていても、その前例を踏襲すべきであるとして、東京での挙行への反対があった(今となっては信じ難いだろうが)。
しかし、大正より前の歴史を顧みると、即位の礼・大嘗祭は例外なく首都(に当たる場所)で行われて来た。又、それが“皇位継承儀礼”としての本質から見ても妥当だ。
従って、旧登極令に基づいた大正・昭和の例は、“千年の都”だった京都から東京に首都が遷った過渡期の出来事であり(特に明治天皇の場合は、即位の礼が京都、大嘗祭は東京で行われた)、
平成からの姿こそ“本来の在り方”と理解できる。
今の憲法に照らしても、「日本国」および「日本国民統合」の「象徴」であられる天皇のご即位に伴う最も大切な行事が、首都“以外”で行われるなどあり得ないはずだ。
平成の即位の礼・大嘗祭に当たり、私は反対論に対して精力的に批判の論陣を張った(その時に、包括的な大嘗祭論として出版したのが私の最初の著書『天皇と民の大嘗祭』。後に内容の一部に手を入れて『天皇と国民をつなぐ大嘗祭』として刊行)。
令和の御代替わりに際しては、さすがに保守系の中でも反対論はほとんど聞こえて来なかった。
今や保守系の間でさえ、①②③のような愚論があったことなど、忘れ去られているのではないか。
④上皇陛下のご譲位への反対
これについては、記憶に新しいので改めて取り上げるまでもないかも知れない。
各種世論調査で国民のほぼ90~95%がご譲位を願われる上皇陛下のお気持ちに沿うべきであると受け止めたのに対し、保守系知識人は安倍内閣の有識者会議でヒアリングに呼ばれた者も公然と反対し、あまつさえ上皇陛下に対して批判的な言辞を弄する者までいた(今となっては信じ難いだろうが)。
前近代において、ご譲位による御代替わりこそが長年の伝統だった事実を、知らなかったのだろうか。
しかも、「日本国民統合の象徴」としての“お務め”に誠実であろうとされるなら、高齢化の時代にあってご譲位の仕組みはどうしても必要だ(この点を解明したのが拙著『天皇「生前退位」の真実』)。
あの時、上皇陛下の切なる願いを踏みにじろうとした者らの名前を、私は今後も忘れないだろう
(彼らが反対の根拠として盛んに主張した「〔天皇と上皇による〕権威の二重化」など、どこに起きているのか!)。
このように振り返ると、皇室が“もっと前”に進もうとされる動きに、国民の多くがいつも正しい受け止め方をして来たのに対し、保守系の一部がことごとく(今となっては信じ難いまでの)間違った姿勢を取り続けて来たことが分かる。
皇位の安定継承についても、残念ながら同じ構図が繰り返されているように見える。
追記
先日のブログ「皇位継承の順序において『直系』を優先することは当たり前」(7月28日公開)で
「『直系』優先の原則(天皇のお子様やお孫様を天皇のご兄弟その他のお子様などより優先する)」と記したのは、やや舌足らずなので、以下のように訂正する。
「『直系』優先の原則(天皇のお子様やお孫様などを、天皇のご兄弟その他のご近親者より優先する)」