皇統譜上の初期の天皇の実在については歴史学から疑問が投げかけられて来た。
それへの私の目下の考え方の一端を簡単に記しておこう。
まず、戦後歴史学による初期の天皇の実在への批判的な見方については、新編日本古典文学全集
『日本書紀①』の「解説」(直木孝次郎氏執筆)によって、初心者でもそのアウトラインを知ることができる。
「世襲王権」は6世紀初頭から?
近年では、6世紀初めの第26代・継体天皇あたりから世襲王権が成立したという見方が有力だ(それでも、現存する世界の君主の家柄の中では、飛び抜けて古い血統ということになるが)。
しかし、継体天皇および(それまでの直系に繋がらない)そのお子様だった第27代・安閑天皇、第28代・宣化天皇が揃って、「入り婿」型の皇位継承を余儀なくされた事実(吉田孝氏)から、
それ以前の5世紀の「直系」の血筋が重んじられていたことが分かる。これは、すでに君主の地位が世襲によって継承されており、その血統が一定程度、権威化していたことを示す。
5世紀「2つの王統」説への疑問
ところが学界では、5世紀には2つの王統(王族集団)が並立していたという見方が、広く支持されている。だがそれは、『宋書(そうじょ)』倭国伝における記事の欠落(倭王の珍と済の間の血縁が書かれていない)という文献上の事実と、同時代の古墳の分布の在り方(百舌鳥〔もず〕
古墳群と古市〔ふるいち〕古墳群の並存)という考古学上の知見を、安直に王統論に結びつけたに過ぎない。
シナ南朝・宋と冊封(さくほう)関係を結ぶ為に必要だった「倭」姓の名乗りが継承されている(『宋書』文帝紀に「倭済」とある。吉村武彦氏)だけでなく、王宮の連続性、稲荷山
(いなりやま)鉄剣銘(471年)に「世々(=代々の君主の治世)」続けて仕えて来たと記してあって(平野邦雄氏)「奉事」対象の連続性が窺える点、『宋書』に収める倭王・武
(第21代・雄略天皇)の上表文(478年)に国内統一を自分の祖先の事績としていること等から、そうした推定をそのまま受け入れる訳にはいかないだろう。
神功皇后の実在について
さらに4世紀にさかのぼると、伝説的な描写も目立つ神功(じんぐう)皇后の(伝説部分を除いた)実在については、早くは田中卓博士がその論証に努められており(同著作集11‐Ⅰ)、近頃も有力な研究者が「筆者はためらいながらも、(古代の古い時点での)皇室系譜のうえで神功皇后が存在したことまでは、認めてよいのではないかと考えている」(遠藤慶太氏)と述べておられるのは興味深い(それは神功皇后の実在そのものを認めることにかなり近い)。
神武天皇の実在を巡る研究状況
皇統譜で初代の天皇とされている神武天皇については、より一層、神話的・伝説的な要素が多く、その実在をトータルに否定する見解が、これまでのところ圧倒的に優勢だ。
だが私は従来、「神武の実在は、これを確認することも困難であるが、また、これを否定することも、それに劣らず困難である」(黛弘道氏)との見解を支持して来た。
ところが最近、こうした総論的な指摘からさらに各論に踏み込み、実在の解明に迫る研究成果が現れている。いわゆる「欠史八代(第2代・綏靖〔すいぜい〕天皇~第9代・開化天皇)」の実在性を巡って、日本書紀の異伝(「一書」の伝え)を丁寧に分析することで、本文より“古い伝承”の存在とその信憑性を浮かび上がらせた(若井敏明氏)。
これは可能性として、やがて神武天皇の実在にも繋がり得るアプローチであって、この方面の探究がさらに深まるのを期待したい。
皇室のご作法を尊重するのが国民としてのたしなみ
なお皇室ご自身におかれては、研究の進展と共に変更を免れない学説状況とは別に、一貫して「皇統譜」に従って祭祀や行事などを営んでおられる。毎年4月3日の神武天皇祭(大祭)や初期の天皇を含む歴代天皇を対象とした式年祭など。
例えば平成28年には「神武天皇二千六百年式年祭」があって、上皇・上皇后両陛下には奈良県橿原(かしはら)市にある畝傍山東北陵(うねびやまのうしとらのすみのみささぎ)までお出ましの上、恭しくご拝礼になった。
国民としても学問研究の自由の一方、そのような皇室のご作法を尊重するのが、憲法が天皇を「日本国の象徴」「日本国民統合の象徴」としていることによる規範的要請であり、普通のたしなみでもあろう。