神様にもお墓がある。
と言うと、驚く人が多いのではないか。神の実在を真正面から信じている人がどのくらいいるか
分からないが、神を信じる人でもその“お墓”となると、ちょっと付いて行けない感覚になるのではないだろうか。
ましてや、21世紀の現代にその“神様のお墓”を国の役所が管理し、お守りしているとなると、
ますます唖然、呆然とするのではあるまいか。これは冗談でも架空の話でもない。
宮内庁が実際に管理している「神代三陵(かみよ〔じんだい〕さんりょう)」のことだ。
皇室のご祖先に当たる三代の神々
神代三陵という言葉自体、多くの人は触れる機会がないだろう。わざわざ現地を訪れた人など、もっと少ないのではないか。神代三陵とは、その呼び名の通り、神代つまり日本神話の世界の中で語られている(皇室のご祖先の系統の)三代の神々の陵(みささぎ=お墓)のことだ。
その三代とは、次の神々だ。
①天照大神の孫としての天上の世界から初めて地上に降臨されたと伝えるアマツヒコ/ヒコホノニニギ/ノミコト。よく知られている「天孫降臨神話」の主人公だ。
②そのお子様のヒコ/ホホデミ/ノミコト。ニニギノミコトと山の神の娘との間にお生まれになったと伝える。
③そのお子様のヒコ/ナギサタケ/ウガヤフキアエズ/ノミコト。ホホデミノミコトと海の神の娘との間にお生まれになったと伝える。
最後の③ウガヤフキアエズノミコトのお子様が神武天皇―という神話上の系譜になっている。
三代の神々の「陵」を巡る伝承
興味深いのは、これら三代の神々には「山陵(みささぎ)」があったと日本書紀に伝えていることだ。次の通り。
①「筑紫(つくし)の日向(ひむか)の可愛(え)の山陵」
②「日向の高屋山上陵(たかやのやまのえのみささぎ)」
③「日向の吾平(あひらの)山上陵」
ところが、古事記には①③の記載はなく、②についてだけ「御陵(みささぎ)は高千穂の山の西にあり」という漠然とした伝えがあるにとどまる。よって、神代三陵の伝承がどこまで古くさかのぼるかは不明だ。
平安時代の神代三陵
平安時代の『延喜式(えんぎしき)』を見ると、諸陵(しょりょう)式(巻二十一)に神代三陵の記載があるものの、どれも同じように「日向国にあり。陵戸(りょうこ)なし」とあって、詳しい所在地は明らかでなく、陵の守衛に当たる「陵戸」も設置されていなかった。
同式に、これらの三陵は「山城国葛野(かどの)郡田邑陵(たむらのみささぎ=第55代・文徳〔もんとく〕天皇の陵)の南原において之(これ)を祭る」とされている。
それによって、平安京の郊外の文徳天皇陵(現在は京都市太秦〔うずまさ〕三尾町に指定されているが疑問視する意見もある)の近くに祭場が設けられていたことが分かる。その祭場が設置されたのは、文徳天皇のお子様の第56代・清和天皇の時代だったとする見方が示されている(北康宏氏、山田邦和氏)。
いずれにせよ、神代三陵は当時、すでにその伝承地も特定できなくなっていて、日向国から遥かに離れた平安京の郊外で祭典が行われている状態だった。
明治時代に現在地を「治定」
それが明治になって、現在の場所に指定された。
『明治天皇紀』の明治7年(1874年)7月10日条に神代三陵「治定(じじょう)」の記事が見えている。
「所在地は従来明らかならざりしが、文献に徴し実地を踏査せしめ、遂に」現在地を定めたという。この治定の背景には、白尾国柱(しらお・くにはしら)ら旧薩摩藩の国学者たちによる探索の積み重ねがあったとされる(武田秀章氏)。指定された場所は以下の通り。
①可愛山陵(えのみささぎ)=鹿児島県薩摩川内(さつませんだい)市宮内町(新田神社の境内地と相接している)、形状は方形(地元では正式な呼び方のほかに、“かわいさんりょう”とか“
かわいりょう”などと呼ばれているようだ)
②高屋山上陵=同県霧島市溝辺町麓(みぞべちょうふもと)、形状は円丘
③吾平山上陵=同県鹿屋(かのや)市吾平町上名(あいらちょうかみみょう)、形状は洞窟
神武天皇より前の皇室のご祖先
この神代三陵の存在は、「皇統」が神武天皇“より前”にまでさかのぼり、まさに天照大神に由来するという、皇室ご自身の精神的なお立場をよく示している(それがいわゆる「Y染色体論」と
真正面から対立・矛盾するのは改めて言うまでもない)。
ご祖先に当たる神様のお墓があって、宮内庁が今もそれをしっかりお守りしているという事実は、まさに根源が神話にまで行き着く、わが国の皇室ならではのエピソードだろう(ちなみに、日本史関係で最も権威がある辞典とされている『國史大辭典』の第3巻〔昭和58年刊〕にも「神代三陵」の項目を収める。戸原純一氏執筆)。
追記
今月のプレジデントオンライン「高森明勅の皇室ウォッチ」は23日公開。