安倍晋三元首相の「国葬儀」を巡って様々な議論が出された。私自身もプレジデントオンラインの連載「高森明勅の皇室ウォッチ」で取り上げた(8月26日公開)。ここでは、私の目に止まった2つの論説を紹介する。
1つは憲法学者で東京大学大学院教授の石川健治氏の議論だ(「現代ビジネス」10月5日公開)。
「国民の自由や財産、国民の権利義務に関する制約は、すべて法律事項に留保される…政府による自由や財産の『侵害』に関しては、それらをすべて法律事項に『留保』して議会の手で守り切る、という意味で、侵害留保説…の(自由主義的な)考え方によれば、今回の国葬は服喪義務がなくなったので、権利『侵害』が一切発生しないため、その意味では法律事項ではなくなった、
つまり法律の根拠なしに行える、ということになります」
「しかし…戦後の議会制民主主義の統治システムを前提にする限り、国会の守備範囲は『自由』の『侵害』に限られるのかという問題が出てきます。
たとえば西ドイツあるいは統一ドイツでは、重要な事柄あるいは本質的な事柄であれば、やっぱり議会で決めるべきだという考え方が、定着することになる。重要な事柄、本質的な事柄は、法律事項に留保する、という考え方です(重要事項留保説、あるいは本質性理論)」
「その政治社会において国葬がもつ重み如何(いかん)にもよりますが、国家の祭祀行為が、国家作用として本質的な問題を含んでいる以上、なお法律の根拠が必要だという議論が、民主主義の観点からは出せるということです」
「(政府が法的根拠として持ち出した)内閣設置法は…(国家の統治組織の中身を定めた)組織法(の1つ)であって、(国家作用のルールを定めた)作用法ではありません。(国家の統治組織の中身ではなく、国家作用の在り方が問われている以上)大事なのは、(既に廃止された)国葬令に替わる作用法としての国葬法が必要なのか必要でないのか、であって、内閣設置法は全然次元が違うのだ、ということです」
「広義の国葬は、国家作用としての祭祀行為を通じて、特定の人間を象徴化する行事です。
とりわけ日本におけるそれは、歴史的背景から、特別な重みをもつ例外的な行事になっています。これが、重要でない、非本質的な事柄だと、本当にいえるのだろうか。
そのような選択を、簡単に、ルールなしにやってしまっていいのだろうか。こういう議論を、まさに国民的にやっていく必要があるのだろうと思います」
こうした前提的な論点整理を踏まえると、弁護士で「The Tokyo Post」編集長の菅野志桜里氏の
問題提起の重要さが一層、際立つだろう(「The Tokyo Post」9月27日公開)。
「日本の現状をみたとき、今回の『国葬』でここまで賛否が割れてしまった以上、慣例で安定的に国葬を継続することはほぼ不可能。根拠法をもとに国民の理解を調達する手立てを講じない限り、事実上国葬を行うことは難しいでしょう」
「それなりに中身のある根拠法としては、例えば①『特別な功労がある』などの実質的な要件と
②『国会の決議』あるいは『三権の長(衆議院の参議院の両議長・最高裁判所長官・内閣総理大臣)の合意』などの手続き的な要件をあわせて定めるということが考えられます」
「ただし、その手続きの過程で、まさに『〇〇氏は国葬に値するか』という故人への通信簿がリアルに公に議論されることになります。しかし、〇〇氏が政治家であれ、芸術家であれ、スポーツ選手であれ、亡くなって間もない故人をこうした議論にさらすのは、日本の社会風土にそぐわないのではないでしょうか。人間同士色々あるけれど、せめて故人を悼み遺族を支えようという、日本社会が培ってきたどっしりとした合意に傷がつくのではないでしょうか」
「では、議論を必要としないような制度設計はどうでしょう。…今、問題になっているのは、まさに基準もなく内閣の一存で国葬が決定され、国民の疑問に対して説得力ある説明もないために、国家としてとても不安定なかたちで国葬が行われているという状況です。
こうした姿勢を法律で上書きしても、次回の国葬は安定しないし、この法定化そのものにまた大きな世論の反対が巻き起こってしまいそうです」
「評価せずとも国民的合意を調達できるのは、結局のところ、天皇そして上皇の『大喪の礼』に限られるのではないでしょうか。それは、『人』に焦点をあてるのではなく『立場』に焦点をあてた制度だからであり、様々なご努力のもと皇室制度自体が今なお安定した国民的合意に支えられているからだと思います」
「そのように考えると、結局、国葬は『大喪の礼』に限るのが自然かつ現実的ということになってくるのではないでしょうか」
菅野氏の提起は情理を兼ね備えた説得力のある意見として受け止めた。