わが国の古代史上、とりわけ巨大な存在感を示した天智天皇(第38代)と天武天武(第40代)。
その父親は舒明天皇(第34代)だった。この舒明天皇のご両親が“兄妹”の関係だったと言えば、
現代の日本人は驚くだろう。
父親は敏達天皇(第30代)の皇子の押坂彦人大兄皇子(別名は麻呂古皇子)。母親は同じ天皇の皇女の糠手姫皇女(別名は田村皇女)。
しかし、それぞれ母親が異なる。押坂彦人大兄皇子の母親は皇后の広姫。糠手姫皇女の母親は菟名子夫人。父親が同じでも母親が違えば近親相姦の禁忌には触れないという考え方が社会的に共有されていたから、こうした婚姻が可能になる(父母共に同じならばさすがにアウト)。
この事実は、男系だけでなく女系も血統として意味を持ち得たことを示す、「双系」社会の証しの1つと言える。
一方、シナ男系主義のもとでは「同姓不婚」という婚姻上のルールが長く維持されて来た。
シナにおける歴史上の「姓」は、「父系で継承される父系血統の標識」(大藤修氏『日本人の姓・苗字・名前』)であり、父系=男系だけしか血統として意味を持たない社会で「同姓」は(たとえ母親が違ったり女系を介して血縁が遠ざかったりしていても)“全く”同じ血筋であることを意味するから、同姓の男女の婚姻はほとんど近親相姦に等しい絶対的タブーとして忌み嫌われた(王朝交替を繰り返したシナや朝鮮半島では君主も皆「姓」を持っていた)。
ところが、わが国の場合は逆に、事実として皇族同士の婚姻が多く見られただけでなく、古代の「継嗣令」では女性皇族は男性皇族との婚姻が原則とされ(王娶親王条)、明治の皇室典範でも「皇族ノ婚嫁ハ同族又ハ勅旨ニ由リ特ニ認許セラレタル華族ニ限ル」(第39条)との規定があった。シナ男系主義の立場からはおよそ正気を疑う法規範だろう。
古代以来、長年にわたりシナ男系主義(からごころ)の大きな影響を受けて来たわが国だが(古代における“男系化”の諸段階については拙著『「女性天皇」の成立』98~102ページ参照)、
遂に基底における双系社会としての特質(やまとごころ)を完全には失わなかったと言える。
なお念の為に付言すれば、「双系制」については一般に以下のように説明される。
「父系でも母系でもなく、両方合わせた出自のたどり方、そうした出自規制で構成される社会のあり方をさす」(義江明子氏「双系制」、『戦後歴史学用語辞典』所収)