昨年、ある雑誌の編集部から、令和5年1月号に載せる私の原稿に表現上の問題がある、
との指摘を受けた。冒頭の「新年明けましておめでとうございます」という表現は、「明ける」に「終わる」という意味があるので、「新年が終わって…」というメッセージになって不適切ではないか、と言うのだ。
以前、ネット上でもそんな話題を見かけた気がする。
確かに「明ける」には、「ある期間が“終わって”、次の新しい状態になる」(『日本国語大辞典』第1巻)とか「期限が“満了”する」(『広辞苑 第5版』)、「〔その期間が〕“おわる”」
(『三省堂国語辞典 第4版』)、「ある期間が“過ぎて”次の状態になる」(『岩波国語辞典 第8版』)、「一定の期間(拘束された状態)が“終わって”、新しい状態が展開する」(『新明解国語辞典 第8版』)などの意味もある。
しかし一方、その用法について「『夜が明ける/朝が明ける』『旧年が明ける/新年が明ける』
のように、古いものと新しいものの両方を主語にとる」(『明鏡国語辞典 第2版』)ことが知られている。
これについては、「前者は現象の変化に、後者は新しく生じた変化の結果に注目していう」
(同)と説明される。
以上を巡り語義に即して少し分析的に整理すると、「ある期間が終わって」(『日本国語大辞典』同上、以下も同じ)、「ある期間が過ぎて」(『岩波国語辞典』)、「一定の期間…が終わって」(『新明解国語辞典』)という意味の方に力点を置く場合は、「夜が明ける」「旧年が明ける」となり、一方「次の新しい状態になる」(『日本国語大辞典』)、「次の状態になる」(『岩波国語辞典』)、「新しい状態が展開する」(『新明解国語辞典』)なら「朝が明ける」
「新年が明ける」という表現になると一応、対応性を指摘できる。
同じように「現象の変化」と「新しく生じた変化の結果」のそれぞれに着目した言い方として、「水が沸く/湯が沸く」が紹介されている(『明鏡国語辞典』)。
「水が沸く」と「湯が沸く」なら、どちらかにこだわる必要は特に無いだろう(近年では「湯が沸く」の方が一般的な表現か)。
しかし、新年を迎えていきなり「“旧年”(が)明けまして…」と言われても、あまり「めでたく」ないのではあるまいか。
他に「年が明ける」という言い方もある。
この場合の「年」について、「新年」と「旧年」のどちらを意味するかは、人によって理解が違うだろう(多くの人の感覚では「“湯”が沸く」と同じように「新年」だろうか)。
又「明ける」だけで、「次の年になる」(『日本国語大辞典』)、「日や年があらたまる」(『広辞苑』)、「新しい年になる」(『三省堂国語辞典』)、「古い年・月が終わって、新しい年・月になる」(『明鏡国語辞典』)、「年が改まる」(『岩波国語辞典』)という
意味もある。
だから、主語に当たる「新年」は必ずしも必要ではなかろう。
それでも、1月号用の原稿を書いた時の私の感覚としては、「新年」という言葉それ自体が持つめでたい響きも、「明ける」(=「明るくなる」〔『広辞苑』〕、「日がのぼって明るくなる」
〔『岩波国語辞典』〕)という言葉のめでたさも、どちらも大切にしたいという気持ちがあった。
それでせっかく編集部から連絡を貰ったにもかかわらず、「明けましておめでとう」でも「新年おめでとう」でもなく、元の「新年明けまして…」で落ち着いた。
勿論、たとえ間違いではなくても、編集部から指摘が来るような表現は、読者も違和感を抱く可能性があるので、控えるのが賢明という考え方もあるだろう。
そこは書き手それぞれの判断になる。…と、年明け早々、駄文にお付き合い戴き失礼。