もう何度も述べて来た。
にも拘らず、思考の堂々巡りを繰り返す人たちがいるようだ。気の毒だが、いつまでもその不毛な堂々巡りから抜け出せないケースがある(奇妙なことに、思考の深化・発展という発想がなく、変化=劣化としか考えられないらしい)。
例えば、皇位継承における「男系」継承への拘りから、皇室の祖先神について不思議な言説を繰り返す人らがいる。どうやら、天照大神が“女性”神であることが理由で、素直に皇祖神と認めたくないようなのだ。嘘のような滑稽な話だ。
しかし、皇統の“根源”が女性神では皇統=男系という主張に説得力がないことは、さすがに理解できるらしい。だから大慌て。
ならば一体、そういう人らは皇祖神にどの神を当てはめようとするのか?スサノヲのミコトか?
高皇産霊尊(たかみむすひのみこと)か?それとも他の神か?そこを明確にして欲しい。
その上で、以下の質問に真正面から答えて欲しい。
〇皇居・宮中三殿の中央の「賢所(かしこどころ)」に、天照大神1柱だけが他の神々とは“区別され”(他の神々は全て賢所の隣に建てられている「神殿」に祀られている)、特別に祀られているのは何故か?
〇天照大神を祀る「伊勢の神宮」だけが古代以来、皇室から特別な待遇を受け続けて来たのは何故か?
〇皇位のしるしの「三種の神器」の中でも最も尊貴とされる神鏡が神宮、それに次ぐ宝鏡(神鏡のご分身)が賢所、それぞれの“ご神体”とされているのは何故か?
〇天照大神以外の神(例えばスサノヲのミコト、高皇産霊尊など)を祀る場合は、そうした待遇を決して“受けない”のは何故か?
天照大神が皇室の祖先神であることは古代以来、揺るぎのない信仰上の事実だ。この事実を“出発点”として、天照大神を巡る神話が形成された。その逆ではない。
人が誰も避けられない現実として“死”はある。その現実を出発点として死の起源を語る神話が生まれた。その逆ではない。
だから、死の起源を巡る神話の筋立てをどのように解釈しようと、人が死を避けられないという現実を変更することはできない。それと同じように、皇祖神を巡る神話をどのように解釈しようと(それは多様な可能性に開かれている!)、神話形成の出発点にあった「皇祖神は天照大神である」という(唯一の!)事実が揺らぐことはない。
皇祖神の判定は(皇室にとってどの神が歴史上、更に現代においても、“根源的な祖先神”として扱われているか、という)事実論なので、実証歴史学的なアプローチが必要だ。もともと多義性を排除できない、神話解釈論から事実の判定について確定的な結論を導くのは、方法論的に不可能であることを知っておく必要がある。
なお、拙著『はじめて読む「日本の神話」』のプロット分析を持ち出して、天照大神が皇祖神である事実を否定しようする高森ファン(?)もいるらしい。拙著を愛読され、その内容を“権威あるもの”として扱って下さるのは嬉しい。
だが、事実と神話の関係性について初歩的な誤解があるのは、残念(神話のプロット分析を根拠に事実の確定を行おうとするのは、そもそも見当違い)。