『日本書紀』で唯一「嫡子」とされた欽明天皇の血筋とは?
- 高森明勅
- 2023年8月25日
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わが国で最初の正史は『日本書紀』。 その中で唯一「嫡子」と表記されたのが、第29代·欽明天皇だった。欽明天皇は第26代·継体天皇のお子様だった。しかし、欽明天皇には兄として第27代·安閑天皇と第28代·宣化天皇がおられた(その他にも即位しなかった兄弟がおられる)。
にも拘らず、『書紀』はそれらの方々とは区別して、欽明天皇を「嫡子」とした。これは何故か。母親の違いだった。
安閑天皇と宣化天皇の母親は地方豪族の娘(尾張連草香の娘、目子媛)だった。それに対して、欽明天皇の母親はそれまでの皇統の直系の血筋を引く手白香皇女(第24代·仁賢天皇の娘)だ。
『古事記』の書きぶりを見ると、応神天皇の5世の子孫とされ、天皇からの血筋が遙かに遠かった継体天皇は、手白香皇女(『古事記』の表記では手白髪命)との婚姻により、“入り婿”として即位された経緯がより鮮明になる。そのお子様だった欽明天皇は、(父親でなく!)母親の血筋=女系を介してそれまでの直系の皇統に繋がる方だった。それで、兄たちより後から即位されたにも拘らず、他の兄弟とは区別して嫡子とされた。
しかも、安閑天皇も宣化天皇もそれぞれ直系の皇女(仁賢天皇の娘、春日山田皇女と橘仲皇女)を正妻とされ、崩御後はお2方とも異例ながら正妻と同じ御陵に合葬された、と『書紀』は伝えている。
つまり継体天皇の場合と同じく、“入り婿”として皇位を継承した事情が窺える。その上、安閑天皇の場合はお子様自体がおられなかったが、宣化天皇に男子のお子様がおられても、皇位は継承されていない。
一方、手白香皇女の血筋を引く欽明天皇の系統によって、その後、皇位は途切れなく受け継がれ、今上陛下に至っている。
この事実は何を意味するか。
“大傍系”だった継体天皇の血筋だけを引くのでは、次の代からの皇位継承を正統化できず、その為には直系の手白香皇女の血筋を受け継ぐことが不可欠だった事実を示す。そうであれば、欽明天皇は傍系の父親の血筋も引いているが、皇位継承に際しては直系だった母親の血筋を引くことこそが、その“第一条件”だったと見るべきだろう。
いわゆる「倭の五王」の時代を経て、シナ父系制(男系主義)の大きな影響を受け、男系継承の標識としての「姓」が既に成立した6世紀でさえ、こうした実情があった。父親の血筋=男系ではなく、母親の血筋=女系こそが皇位継承の決定的な条件だったという意味で、欽明天皇の即位は「女系」による継承だったと理解する方が、当時の実情により近いだろう。
これ以後の天皇は全て、既述の通りこの天皇の血筋を引いておられる。
【追記】 プレジデントオンライン「高森明勅の皇室ウォッチ」8月25日に公開。