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執筆者の写真高森明勅

「身分制の飛び地」説と「エスプリ·ドゥ·コール」論の矛盾


「身分制の飛び地」説と「エスプリ·ドゥ·コール」論の矛盾

現在の憲法学界で最も権威ある学者の1人とされているらしい長谷部恭男氏。天皇·皇室と「人権」の関係を巡り、近年、通説化しつつあるように見える「身分制の飛び地」説を唱えておられる。以下の通り。


「日本国憲法の作り出した政治体制は、平等な個人の創出を貫徹せず、世襲の天皇制(憲法2条)という身分制の『飛び地』を残した。残したことの是非はともかく、現に憲法がそのような決断を下した以上、『飛び地』の中の天皇に人類普遍の人権が認められず、その身分に即した特権と義務のみがあるのも、当然のことである。したがって、天皇は(そして皇族も)憲法第3章にいう権利の享有主体性は認められない」(『新法学ライブラリー2 憲法 第5版』)


しかしその一方、同氏は別の場所で次のような指摘をされている。


「天皇制および皇室制度を持続的に支えようとする皇族に共有される精神、つまりエスプリ·ドゥ·コールが失われれば…現在の姿の天皇制および皇室制度を維持することはおぼつかない。…


天皇制の存続に危機感をおぼえる人々は…エスプリ·ドゥ·コールが失われるリスクに…いかに対処すべきかこそを考えるべきことになるであろう」(「奥平康弘『“万世一系”の研究』❲上❳解説」)


天皇·皇室を巡る制度を維持する為には、それを担い支えようとする皇室の方々ご自身の自発的·主体的な「精神」が欠かせない、という重要な着眼だ。


しかし、「皇室=身分制の飛び地」説を前提として、「人類普遍の人権が認められず、その身分に即した特権と義務のみがある」という扱いを受け続ける場合、当事者であられる皇室の方々の

モチベーションが損なわれ、「天皇制および皇室制度を持続的に支えようとする…エスプリ·ドゥ·コール」が「失われるリスク」が生まれたり、増大したりしないだろうか。


「身分制の飛び地」説と、天皇·皇室を巡る制度を支える「エスプリ·ドゥ·コール」の意義を強調する立論とは、(同氏が制度自体の廃絶を望んでいるのでない限り)はっきりと矛盾するのではあるまいか。


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