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執筆者の写真高森明勅

「皇室の祈り」は国民の責任感と主体性を厳しく問う

更新日:1月9日


「皇室の祈り」は国民の責任感と主体性を厳しく問う

皇室は国民の為に祈って下さっている。


しかし、その祈りがどのようなものか、広く知られていないのではあるまいか。或いは誤解されているのではあるまいか。


「皇室の祈り」の内実については以前、上皇后陛下が次のように述べておられた。


「人の一生と同じく、国の歴史にも喜びの時、苦しみの時があり、そのいずれの時にも国民と共にあることが、陛下の御旨(みむね)であると思います。陛下が、こうした起伏のある国の過去と現在をお身に負われ、象徴としての日々を生きていらっしゃること、その日々の中で、絶えずご自身の在り方を顧みられつつ、国民の叡知がよき判断を下し、国民の意志がよきことを志向するよう祈り続けていらっしゃることが、皇室存在の意義、役割を示しているのではないかと考えます」(平成7年、お誕生日に際しての文書回答から)


「“国民の”叡知がよき判断を下し、“国民の”意志がよきことを志向する」ように祈ることこそが“皇室の祈り”であると、おっしゃっている。


国民がなすべきことをなさず、努めるべきことに努めなくても、「皇室の祈り」によって万事上手く行くということでは、勿論ない。そうした国民の無責任や自堕落さを招くオカルト的な祈りではなく、むしろ国民の側(!)が、皇室の懸命な祈りに十分、応えられているかどうか、絶えず自問自答を迫る祈りだ。


果たして、国民の叡知が曇っていないか、どうか。


意志は怠惰·不善に傾いていないか、どうか。まさに国民の責任感と主体性を厳しく問う祈りである。そこを誤解してはならない。

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