旧宮家系子孫男性が養子縁組によって新しく皇籍取得するプランは事実上、これまでの皇統を断絶させ、旧宮家系(賀陽家·久邇家·東久邇家·竹田家)という“国民の血筋”に取って替わらせる暴挙だ。
しかし、臣下から皇籍取得した“先例”があるとして取り上げられるのが、中世の人物、源忠房。
しかし、忠房は第84代·順徳天皇の曾孫(3世の子孫)に当たり、しかも元々“皇族として”生まれていた。従って、天皇からの血縁が22世(!)も離れ、元々“国民の子として”生まれた旧宮家系子孫とは、全く同列に扱えない。
忠房について詳しくは以下の通り。
「源忠房は、外戚である摂関家の二条兼基(1268〜1334)の猶子となり、正安3年(1301)12月15日に元服し、正三位下に直叙された。年代から見て、父彦仁王が元服した永仁2年(1294)以前の出生だろう。したがって、忠房は、誕生時には皇族であった。…
花園天皇が譲位して後醍醐天皇の治世になると、文保3年(1319)2月18日、源忠房は、後宇多天皇の猶子として親王となり、同年、元応元年9月27日、弾正尹に任じられ、『岩蔵弾正親王』と称された」(日本史史料研究会監修·赤坂恒明氏著『「王」と呼ばれた皇族ー古代·中世皇統の末流』)
この忠房親王には男子2人がいたものの、1人は源氏を賜って臣下となり、もう1人も出家している。又、女子2人は傍系の皇族に嫁いでいる。
いずれにせよ、皇位継承のラインから完全に除外されていたことが分かる。
なお清水正健氏『皇族世表』·『皇族考證』第肆巻、宮内庁書陵部『皇室制度史料 皇族 三』など参照。
皇統の断絶と王朝交替を導く、旧宮家プランを正当化する為に先例として持ち出すのは、全く見当外れだ。
追記
7月27日に予定されている安定的な皇位継承への気運の盛り上げを狙うイベント。
素晴らしいゲストを迎え、開催時期もどうやら絶好のタイミングになりそうなので、せっかくのチャンスを活かそうと呼び掛けるブログを先日、書いた。
これに応えて、イベントの運営をボランティアとして支えて下さる皆さんも知恵を集め、主催者の小林よしのり氏が最善の結論を出されたようだ。
私が言いたかった主眼は、充実した内容に対して時間枠が足りないのでは、という懸念にあったが、開催時間の延長が決まって良かった。私も貴重なチャンスを活かすべく微力を尽くしたい。
勿論、私が他の登壇者より余計に喋る必要などなく、討議の場ではせっかく結集した一騎当千の登壇者それぞれによる活発で中身のある議論こそ、参加者の熱意と共にイベントを成功に導くはずだ。
皇位継承問題は敗戦必至とも見られていたのが、何とか“延長戦”にもつれ込めそうな形勢。
しかし依然、劣勢であることに変わりはない。
それをどこまで挽回できるかを占うイベントになるだろう。